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2014/01/17 12:15

インタビュー

コンサルタントを続けるか、事業家に転身するか。迷う先に見えたのは「お金儲けの神様」だった
――金伸行さん(牛牛福〈成都〉餐飲有限公司総経理)(1/2)

 BCNの「東アジアに土俵を拡げる」という事業ポリシーは、私が尊敬する邱永漢さんの言葉でもある。残念ながら邱さんは、2012年5月16日、惜しまれつつこの世を去られた。だが、多くの人材を育て、ビジネスの遺伝子を残してこられた。その邱さんの「最後の直弟子」である金伸行さんは、現在、中国・四川省の成都で焼肉店経営の手腕を振るっている。ここに至るまでの金さんの足跡、そして弟子からみた邱さんの素顔を存分に語ってもらった。【取材:2013年10月24日 東京・千代田区内神田のBCNオフィスにて】

プロフィール

金 伸行(きむ のぶゆき)
 1971年12月、在日韓国人三世として愛知県岡崎市に生まれる。名古屋商科大学卒業後、タイのチュラロンコン大学MA(Master of Art)コース修了。韓国の延世大学語学堂、中国の大連外国語大学ランゲージセンター、実家の焼肉店店長などを経て、2000年、米系戦略コンサルティング会社アーサー・D・リトル入社。2005年、邱永漢氏と出会い、中国・成都での飲食ビジネスを任されて現在に至る。

「サムライを100人つくることが人生のプロジェクトです」と金さんは語る

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

株式会社BCN 会長 奥田喜久男

<1000分の第102回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

自分の“属性”を切り崩し、“個”を強く意識する

奥田 金さんは、邱永漢さんと出会う前からずいぶん変化に富んだ人生を送ってこられたようですね。

 私は在日三世として愛知県に生まれ、地元の大学を卒業した後、交換留学でタイのチュラロンコン大学の大学院に進みました。大学時代はテニスに熱中し、それをやり切った後に留学の道を選んだのですが、まずそこで苦労することになります。

 専攻は国際経済と国際金融でしたが、タイの国中のエリートが集まるコースで、授業はすべて英語。英語もわからなければ授業内容もわからず、1か月目は40人中最下位です。ほとんど無理といわれた1年間で修了するという目標もあったので、友達づき合いもせずに一日中ひたすら勉強し、4か月目にはクラスで1番になり、なんとか1年間でパスすることができました。

奥田 その後、いったん帰国して、ソウルそして大連に留学されましたね。

 はい。実はバンコクにいるときに、遊びに来た日本の知人が見事な中国語を操るのを目の当たりにして「かっこいい」と思い、中国に行こう、中国語をマスターしたら友達が増えるぞと、単純に思ったんですね。

奥田 でも、まずソウルに行かれた。

 いちおう、私の国籍は韓国ですから、中国に行く前に「祖国」を見ておこうと思い、5か月間、ソウルに滞在しました。

奥田 5か月間で何を感じられましたか。

 日本では「日本人ではない」という否定形で自分の存在を定義し、韓国に行ったら自分は海外生まれの「キョッポ」であって本当の韓国人ではないと感じさせられました。そのときから、自分自身の“属性”を切り崩していったんです。国籍には意味がなく、突き詰めれば最後は一人ひとりの個人ではないかと。だから、他者とは属性抜きに、個と個で対応しようと意識するようになりました。

 その後はソウルからいったん日本に戻り、名古屋のヒルトンホテルで半年ほどアルバイトをして旅費や滞在費を稼いでから、中国の大連に向かいました。

奥田 ということは、バンコクで英語とタイ語、ソウルでハングル、大連で中国語をマスターし、日本語を含め5か国語を操られると。

 大学院を出て言葉が五つもできたら、日本で引っ張りだこだろうと期待して中国から帰ってきました。ところが、日本の大企業には新卒採用と経験3年以上の中途採用しかなく、私はそのどちらにも当てはまらないと言われました。それを聞いた瞬間、もう日本企業には就職しないと決意したわけです。

 就職活動をストップし、しばらくアルバイトや実家が営む焼肉店の店長などをやって過ごしていました。そんななか事業家への道を模索しはじめ、その最短コースは外資系のコンサルティングファームで働くことではないかと考えました。さっそくネットで検索し、トップに出てきたのがアーサー・D・リトル(ADL)だったんです。

「まあ、君ならいけるかな」

奥田 そして首尾よく、焼肉屋の店長からADLのコンサルタントに転身されるわけですね。

 28歳にして初めて就職したわけですが、ADLの上司や先輩は職人気質で、かなり荒っぽく鍛えられました。何とか食らいついて、5年間、そこで働くうちに仕事がものすごくおもしろくなったんです。この仕事を続けるのか、事業家に転身するのかということを真剣に悩み、考えを整理しました。事業を起こすにあたっては「自分で自由に事業展開ができ、成長するパイのなかで活躍し、自己資本の支出は最小にする」という三つの要素が必要だと考えました。そして、その要素の向こうにみえたのが邱永漢先生でした。先生のコラムに「成都でホテル事業をやりたい人はいませんか」と書いてあったんです。

奥田 それが邱さんとの出会いのきっかけですか。

 手紙を出して1か月ほどたった頃、会いたいという連絡が入りました。事務所でお会いし、私が簡単な自己紹介した後、邱先生が2時間ほど話してくださいました。その後、先生は「まあ、君ならいけるかな」とおっしゃったのです。驚きました。私はほとんど話していないのにそう言い切るこの方は、神様なんだと思いましたね(笑)。

 その後、邱先生と中国での事業をみて回った後、成都でのビジネスを任せると先生に言ってもらいました。私はすぐにADLに辞表を出し、成都に向かいました。このとき32歳。2005年6月5日のことです。

奥田 おメガネにかなったわけですね。

 ところが、その3日後にたいへんなことが起こります。現地の責任者から私が担当するはずの「ホテル事業はやめた」と告げられたのです。私は総支配人に着任するつもりで来ましたから、何のことだか理解できないほどのショックでした。不安な気持ちを抱えたまま2か月近くが過ぎ、ようやく成都に邱先生がやってこられました。「金くん、どうやら新しい考え方が必要なようだよ」と謎めいた言葉を口にすると、その日の午後、私はコンクリートむき出しの店舗物件に連れて行かれました。そして、突然「金くん、焼肉屋はできるのかしら」と言われるのです。「はい、できます」と答えると「じゃあ明日から始めて」と。その晩は徹夜で事業計画と投資明細をつくって、出資してもらう資本金額を弾き出します。邱先生は、「こんなに安いんじゃ、僕のポケットマネーにもならないね」と言いながら、ポンと資本金30万ドルを出してくれました。これが、邱永漢学校の最初の「学費」だったのです。

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