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2012/11/01 09:25

インタビュー

[週刊BCN 2012年10月29日付 Vol.1454 掲載]

毎日ベータ版をリリースして日々進化できる会社にしたいと考えた
キングソフト 代表取締役社長 翁 永飆

 四半世紀も前のことだ。日本では「昭和」が幕を閉じようとする頃、高校を卒業して間もない翁さんは、憧れの日本の土を踏んだ。父君が大学教授という恵まれた家庭環境で育ちながら、あえて徒手空拳で日本に学ぶことを選択した。おそらく彼の胸の内には、今の日本の若者にはなかなか理解されにくい純粋な「志」や「夢」が、はちきれんばかりに詰まっていたのだろう。現在、キングソフト、ACCESSPORTの社長を務め、ITの世界で日本と中国の架け橋になっている翁さんに、苦学生時代のエピソードから現在の日中関係に至るまで、じっくりと話を聞いた。(本紙主幹・奥田喜久男  構成・小林 茂樹  写真・横関一浩)

Profile

翁 永飆(Weng Yongbiao)
1969年、上海生まれ。96年、横浜国立大学大学院電子情報工学研究科修了後、伊藤忠商事に入社。インターネットを利用したコンテンツ配信など新規事業に従事。2000年、アクセスポート(現JWord)を設立して代表取締役に就任。06年、ACCESSPORTを設立して代表取締役に就任。07年、キングソフト取締役。08年、同社の代表取締役に就任。

2012.9.20/東京・港区赤坂のキングソフト本社にて

エンジニア志向からビジネス志向に

奥田 1988年に来日されたのですね。当時、中国から日本への留学はそれほど珍しいことではなかったのでしょうか。

 日本語学校の保証があればビザがおりるという緩い時代だったこともあって、上海からはたくさんの学生が日本に来ていました。ただ、入学金と最初の半年分の授業料で40万円ほどかかります。私の両親は大学に勤めていたのですが、それでも二人の月給は合わせて2万円ほど。つまり、日本に行くには給料の20か月分を事前に納めなければならず、そう簡単なものではありませんでした。

 それでも“豊かで進んでいる”日本に行きたい一心で、「必ず稼いで返すから」と頼み込んで、両親にあちこちから借金してもらいました。

奥田 日本でのスタートはどうでしたか。

 当座の生活費4万円をもって成田空港に降り立ちましたが、すぐにアルバイト探しです。最初は御徒町の居酒屋に勤め、大塚にあるアパートの6畳一間に留学生4人で住んでいました。

 日本語学校、アルバイト、ビザの更新、大学受験と、すべて綱渡りのような感じで乗り切ったのですが、受験料稼ぎのためにフルタイムで働いた当時は、午前7時から9時まではパチンコ屋さんの掃除、そのあと日本語学校に行き、午後6時から8時まではオフィスビルの掃除、午後8時から朝の4時まではパブで働き、それが終わったら山手線の列車内で2周分寝て、また朝が始まるというような感じでしたね(笑)。

奥田 それは凄まじいですね。それで首尾よく大学に合格された……。

 横浜国立大学に受かってホッとしましたね。それで、夜は横浜のバーで働いていましたが、1990年の「上海浦東プロジェクト」が始まった頃で、多くの日本企業が中国に興味を抱き始めていました。

 あるとき、上海の父から連絡があって、父の友人が展示会のツアーで来日するので、通訳をしてほしいといわれました。その話を何気なくバイト先のママさんに伝えたら、企業コンサルタントをしているご主人が、その上海からのお客さんにぜひ会いたいというのです。それがきっかけとなって、私がご主人を中国に連れて行き、いわゆるビジネスツアー的なアレンジをすることになって、その後も何度かクライアントの社長を案内するお手伝いをしました。

 そういうアレンジをやり始めたら、けっこう面白いのです。だけど、まだ学生なので、会話のなかに自分の知らない言葉がたくさん出てきます。例えば「事業計画書」とか「フィージビリティスタディ」とか。それを勉強していくとまた興味が湧いてきて……。このときにビジネスのおもしろさに目覚めて、エンジニアになるのはやめようと考えたのです。

奥田 起業することは考えなかったのですか。

 大学4年生になったときには、起業を考えました。ただ、ビザの問題があることと、起業する力がまだないと判断して、大学院に進んだ後、いったん就職する道を選びました。ビジネスを学ぶことができる会社に就職しようと思い、伊藤忠商事のお世話になったのです。

 伊藤忠に一番感謝しているのは、1年目から課の予・実管理を徹底的にやらされたことです。例えば、2月に出した読みと3月の決算にずれが生じてしまうと、厳しく叱られます。それから、課にかかわるすべての契約書のドラフトをつくったり、先方から届いたドラフトをチェックする仕事も非常にシビアでしたね。でも、それが今のビジネスの基礎をつくってくれました。

ソフト会社ではなく、インターネット会社に

奥田 独立のきっかけは何だったのですか。

 1999年から2000年にかけてはネットベンチャーの最盛期でしたが、きっかけとなったのは、渋谷のビットバレーのオフ会で現在の共同経営者である沈海寅と会ったことです。2000年4月にインターパイロンを設立し、同じ年の8月に旧アクセスポート(現JWord)を設立しました。

 最初に手がけたのは、Let's cardというオンラインの名刺交換サービスで、いわば現在のフェイスブックのようなシステムでした。しかし、2年間取り組んだものの時期が早すぎてうまくいかず、2002年にはJWordの事業を本格スタートさせます。JWordは日本語キーワードサービスの事業で、ドメイン名ではなく日本語を入力するだけで目指すサイトに到達できるというもので、企業にキーワードを売ることで収益を得るビジネスモデルです。ここでようやく黒字化を果たすことができました。

奥田 そのJWordをGMOグループに売却して、キングソフトの経営に参画したのには、どんな理由があったのですか。

 JWordは便利ですが、ユーザーが必ず使わなくてはならない機能ではありません。パソコンに欠かすことのできないソフトウェアは、OS、メール、ブラウザ、オフィス(統合ビジネスソフト)、セキュリティの5種類だけです。そのうち、キングソフトはオフィスとセキュリティソフトをもっています。これなら、日本の市場で十分収益を上げられると思いました。それで、キングソフトのCEOに日本進出を提言したのです。

奥田 今かかわっている事業領域で、例えば5年先、こんな方向へ向かうのではないかと予測しておられることを教えてください。

 日本でキングソフトを立ち上げるとき、ソフトウェア会社ではなくインターネットの会社をつくろうと考えました。パッケージソフトは1年に1回しかバージョンアップしませんが、ウェブサービスであれば毎日でもベータ版をリリースして進化させることができます。ソーシャルやクラウドの流れは進むでしょうから、インストール型のソフトウェアはなくなる可能性が高いと思います。加えて、場所や端末の制限がなくなり、どこにいても自由自在に情報が得られるようになるでしょうね。

奥田 最後の質問です。日本と中国の国家間の問題についてどう思われますか。

 難しい質問ですね。例えば私は中国人で、会社は日本法人、社員も日本人、製品も日本人向けです。つまり、それなりのベネフィットをお互いに受けているわけですが、国家間の問題でその事業ができなくなったら、双方とも非常にソンをすると思います。ある意味、この問題は永遠に続くテーマであることを認識して、国家も国民もスマートにふるまうしかないですね。

奥田 同感ですね。同時にわれわれ日本人も中国の人の対日感情をもっと知らなければならないと改めて思います。

・苦学生時代の翁さん


日本に来て間もない頃、アルバイト先でのひとコマ。集合写真は留学生4人でシェアした大塚のアパートで撮影したもの。左端が翁さん。まだ少年の面影が残る。


・こぼれ話


 彼はいつも笑顔で迎えてくれる。ウェブの明日を知りたい時の知恵袋だ。聞いた内容は数年後に事業化している。この人は常に物事の根っこを考えている。そうだ、日中関係が難しい状況にある今、この時期に会いたいと思った。10代の頃の苦労話を笑いながら話してくれる。伊藤忠時代の仕事と格闘した話を楽しそうに回想する。次の機会には、お酒を呑みながら続きを聞こう。

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